ヒト結膜肥満細胞安定化剤事件

ヒト結膜肥満細胞安定化剤事件とは、特許無効審判に係る審決取消請求事件に関するもので、特許発明の進歩性判断において、「予測できない顕著な効果」を有するか否かが争われた事件です。

問題となった特許出願は、ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための点眼剤として、公知のオキセピン誘導体である「11-(3-ジメチルアミノプロピリデン)-6,11-ジヒドロジベンズ[b,e]オキセピン-2-酢酸」を、ヒト結膜肥満細胞安定化(ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制)の⽤途に適⽤する薬剤に関するものでした。

 

上告に至る経緯

  • 平成23年2月:被上告人による特許無効審判請求
  • 平成24年8月:上告人による訂正請求
  • 平成25年1月:訂正を認めるとともに上記特許無効審判請求は成り立たない旨の審決
  • 平成25年3月:被上告人による審決取消訴訟の提起
  • 平成26年7月:知的財産高等裁判所による審決を取り消す旨の判決(前訴判決)
  • 平成28年2月:上告人による訂正請求
  • 平成28年12月:訂正を認めるとともに上記特許無効審判請求は成り立たない旨の審決(本件審決)
  • 平成29年 1月:被上告人による審決取消訴訟の提起
  • 平成29年11月:知的財産高等裁判所による審決を取り消す旨の判決(原判決)

 

特許庁の審査基準では、「請求項に係る発明が、引⽤発明と比較した有利な効果を有する場合、当該有利な効果が、技術水準から予測される範囲を超えた顕著なものであることは、進歩性が肯定される方向に働く有力な事情となる。」とされています。そのため、「予測できない顕著な効果」の存在は、進歩性の要件を満たすことを出願人が主張するための重要な根拠の一つとなっています。

 

進歩性の判断における有利な効果の比較対象

最高裁判決前には、有利な効果の比較対象について以下の3つの説がありました。

  • 主引用発明比較説
  • 審理の対象となる特許発明(以下「対象発明」といいます。)が奏する効果を、主引用発明の奏する効果のみと比較して、顕著で、かつ、予測できないことをいうと解する見解です。

    例えば、対象発明が「AとBの化合物」であり、主引用発明が「Aの化合物」である場合、対象発明が奏する効果が「Aの化合物」の奏する効果のみと比較して、顕著で、かつ、予測できなかったものである場合、対象発明は進歩性を有すると判断されます。

  • 対象発明比較説
  • 対象発明が奏する効果を、当業者が(進歩性判断基準時当時に)対象発明の構成が奏するであろうと予測できる効果と比較して、顕著で、かつ、予測できないことをいうと解する見解です。

    例えば、対象発明が「AとBの化合物」であり、当業者が「AとBの化合物」が奏するであろうと予測できる効果と比較して、顕著で、かつ、予測できない場合、対象発明は進歩性を有すると判断されます。

  • 技術水準比較説
  • 対象発明が奏する効果を、進歩性判断基準時の技術水準において達成されていた(対象発明とは異なる構成を有する発明が奏するものも含めた)同種の効果のみと比較して、顕著で、かつ、予測できないことをいうとする見解です。

    例えば、対象発明が「AとBの化合物」であり、対象発明が奏する効果が、進歩性判断基準時の技術水準において達成されていた公知の「Cの化合物」が奏する効果と同一の場合、対象発明は進歩性を有しないと判断されます。

これに対して、次の最高裁判所の判決は、予測できない顕著な効果の判断方法として、学説および下級審裁判例において多数を占める対象発明比較説によるべきとの考え方を前提としたものと解されています。

さらに、最高裁判所では、効果の有無について、

  1. 非予測性「当業者が予測することができなかったものか否か」
  2. 顕著性「予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否か」
との双方の観点から検討すべきとしました。

 

最高裁判決を受けた特許庁の対応

最高裁判決を受け、「特許・実用新案審査ハンドブック」では、「引用発明と比較した有利な効果」に関する判断を最高裁判決に即して行うことを明確化する文章を追加する、以下のような改訂が行われました。

審査基準「第 III 部第 2 章第 2 節 進歩性」の「3.2.1(1) 引用発明と比較した有利な効果の参酌」には「引用発明と比較した有利な効果」が、「技術水準から予測される範囲を超えた顕著なものであることは、進歩性が肯定される方向に働く有力な事情」になることが記載されている。「引用発明と比較した有利な効果」等の「進歩性が肯定される方向に働く要素」が考慮されるのは、当業者を基準として、請求項に係る発明と主引用発明との間の相違点に関し、進歩性が否定される方向に働く要素に係る諸事情に基づき、他の引用発明を適用する等して論理付けができると審査官が判断した場合である(「3. 進歩性の具体的な判断」の(3) 参照)。
したがって、「3.2.1(1) 引用発明と比較した有利な効果の参酌」の具体的な判断に際しては、引用発明に他の引用発明を適用する等して論理付けができるとされた構成(最高裁判決のいう「本件各発明の構成」)が奏するものとして当業者が予測することができなかったものか否か、当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点から十分に検討することが必要である。なお、「本件化合物と同等の効果を有する本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということのみ」から「本件各発明の効果が予測できない顕著なものであることを否定」すべきではないという最高裁判決に照らせば、請求項に係る発明と同等の効果を有する化合物等が知られていたというのみで、「技術水準から予測される範囲を超えた顕著なもの」ではないと判断するのは適切ではない。

参照 特許庁 進歩性判断における有利な効果に関する審査基準の点検について https://www.jpo.go.jp/resources/shingikai/sangyo-kouzou/shousai/kijun_wg/document/15-shiryou/shiryo01.pdf
「最高裁重要判例解説(ヒト結膜肥満細胞安定化剤事件)」L&T(Law&Technology)87号4月発刊(2020)

 

ヒト結膜肥満細胞安定化剤事件最高裁判決

平成30(行ヒ)69 審決取消請求事件

令和元年8月27日 最高裁判所第三小法廷 判決 破棄差戻

主文

原判決を破棄する。
本件を知的財産高等裁判所に差し戻す。

理由

1 本件は,被上告人が,ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための点眼剤に係る特許(特許第3068858号。以下「本件特許」という。)につき,その特許権を共有する上告人らを被請求人として特許無効審判を請求したところ,同請求は成り立たない旨の審決を受けたため,同審決の取消しを求める事案である。本件特許に係る発明の進歩性の有無に関し,当該発明が予測できない顕著な効果を有するか否かが争われている。
2 原審の確定した事実関係等の概要は,次のとおりである。
(1) 本件特許
本件特許は,発明の名称を「アレルギー性眼疾患を処置するためのドキセピン誘導体を含有する局所的眼科用処方物」とし,1995年(平成7年)6月6日に米国でした特許出願に基づく優先権を主張して(以下,優先権主張の基礎となる同出願の日を「優先日」という。),平成8年5月3日に特許出願されたものであり,平成12年5月19日に設定登録がされた。本件特許に係る発明は,ヒトにおけるアレルギー性眼疾患を処置するための点眼剤として,公知のオキセピン誘導体である「11-(3-ジメチルアミノプロピリデン)-6,11-ジヒドロジベンズ[b,e]オキセピン-2-酢酸」(以下「本件化合物」という。)を,ヒト結膜肥満細胞安定化(ヒト結膜の肥満細胞からのヒスタミンの遊離抑制)の用途に適用する薬剤に関するものである。
(2) 無効審判請求の経緯等
ア 被上告人は,平成23年2月,本件特許について特許無効審判を請求し,特許庁に無効2011-800018号事件として係属したところ,上告人らは,平成24年8月,本件特許に係る特許請求の範囲の訂正(以下「本件訂正1」という。)を請求した。本件訂正1後の特許請求の範囲の記載は,別紙1のとおりである。特許庁は,平成25年1月,本件訂正1を認めるとともに,本件訂正1後の特許請求の範囲の請求項1及び2に係る各発明における「ヒト結膜肥満細胞安定化」という発明特定事項は,引用例1及び引用例2に記載のものから動機付けられたものとはいえないから,引用例1を主引用例とする進歩性欠如の無効理由は理由がないと判断して,上記特許無効審判の請求は成り立たない旨の審決(以下「前審決」という。)をした。 引用例1は,アレルギー性結膜炎を抑制するための本件化合物のシス異性体の塩酸塩を含有する点眼剤(以下「引用発明1」という。)を,モルモットに点眼して結膜炎に対する影響を検討した実験結果等が記載されている,優先日前に頒布された論文であり,引用例2は公開特許公報(特開昭63-10784号公報)である。
イ 被上告人が,平成25年3月,前審決の取消しを求めて訴訟を提起したところ,知的財産高等裁判所は,平成26年7月,引用例1及び引用例2に接した当業者は,引用発明1をヒトにおけるアレルギー性眼疾患の点眼剤として適用することを試みる際に,引用発明1に係る化合物についてヒト結膜肥満細胞安定化作用を有することを確認し,ヒト結膜肥満細胞安定化剤の用途に適用することを容易に想到することができたものと認められるから,前審決の上記の判断は誤りであるとして,前審決を取り消す旨の判決(以下「前訴判決」という。)を言い渡し,前訴判決は確定した。 ウ 特許庁は,上記の特許無効審判事件につき更に審理を行い,上告人らは,平成28年2月,本件特許に係る特許請求の範囲の訂正(以下「本件訂正2」という。本件訂正2後の請求項は請求項1及び5のみである。)を請求した。本件訂正2後の特許請求の範囲の請求項1(以下,これに係る発明を「本件発明1」という。)の記載は,本件訂正1後の特許請求の範囲の請求項1の記載と同じであり,本件訂正2後の特許請求の範囲の請求項5(以下,これに係る発明と本件発明1とを併せて「本件各発明」という。)の記載は,別紙2のとおりである。
特許庁は,同年12月,本件訂正2を認めるとともに,本件発明1と引用発明1との各相違点は,引用例1及び引用例2に接した当業者が容易に想到することができたもの又は単なる設計事項であるが,本件化合物の効果は,引用例1,引用例2及び優先日当時の技術常識から当業者が予測し得ない格別顕著な効果であるとし,本件各発明は当業者が容易に発明できたものとはいえないと判断して,上記特許無効審判の請求は成り立たない旨の審決(以下「本件審決」という。)をした。
(3) 本件各発明に係る効果
本件特許の特許出願に係る明細書(以下「本件明細書」という。)に接した当業者が認識する本件各発明に係る本件化合物のヒスタミン遊離抑制効果は,本件明細書記載の実験(ヒト結膜肥満細胞を培養した細胞集団に薬剤を投じて同細胞からのヒスタミン遊離抑制率を測定する実験)において,本件化合物(シス異性体)のヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制率が,30μMから2000μMまでの濃度範囲内において濃度の増加とともに上昇し,1000μMでは66.7%という高いヒスタミン遊離抑制効果を示し,その2倍の濃度である2000μMでも92.6%という高率を維持していたというものであり,これに対して,抗アレルギー薬として知られるクロモグリク酸二ナトリウム及びネドクロミルナトリウムが,2000μMまでの濃度範囲でヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離を有意に阻害することができなかったというものである。
(4) 優先日当時の公知刊行物の記載
ア 引用例1及び引用例2には,本件化合物がヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制作用を有するか否か及び同作用を有する場合にどの程度の効果を示すのかについての記載はない。
イ 優先日前に頒布された刊行物には,スギ花粉症患者11例ないし30例に対して,本件化合物以外の化合物について,所定濃度の点眼液の点眼後にスギ抗原液を点眼することによりアレルギー反応を誘発する試験を行い,誘発から5分後及び10分後の涙液中のヒスタミン遊離抑制率を測定した結果,5分後の平均値及び10分後の平均値が,①塩酸プロカテロール点眼液0.0003%では79.0%及び82.5%,同点眼液0.001%では81.6%及び89.5%,同点眼液0.003%では81.7%及び90.7%,②ケトチフェン点眼液0.05%では67.5%及び67.2%,③クロモグリク酸二ナトリウム点眼液2%では73.8%及び67.5%,④ペミロラストカリウム点眼液0.1%では69.6%及び69.0%,同点眼液0.25%では71.8%及び61.3%をそれぞれ記録した旨が開示されていた。
3 原審は,上記事実関係等の下において,要旨次のとおり判断し,本件各発明の効果は当業者において引用発明1及び引用例2記載の発明から容易に想到する本件各発明の構成を前提として予測し難い顕著なものであるということはできないから,本件各発明の効果に係る本件審決の判断には誤りがあるとして,本件審決を取り消した。
前訴判決によれば,上記2(2)イのとおり,引用例1及び引用例2に接した当業者は引用発明1に係る化合物をヒト結膜肥満細胞安定化剤の用途に適用することを容易に想到することができたものであるから,本件化合物がヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制作用を有すること自体は,当業者にとって予測し難い顕著なものということはできない。
また,優先日における技術水準として,本件化合物のほかに,所定濃度の点眼液を点眼することにより70%ないし90%程度の高いヒスタミン遊離抑制率を示す他の化合物が上記2(4)イのとおり複数存在すること(以下,これらの化合物を「本件他の各化合物」という。),その中には2.5倍から10倍程度の濃度範囲にわたって高いヒスタミン遊離抑制効果を維持する化合物も存在することが知られていたことなどの諸事情を考慮すると,本件明細書に記載された,本件各発明に係る本件化合物を含有するヒト結膜肥満細胞安定化剤のヒスタミン遊離抑制効果が,当業者にとって当時の技術水準を参酌した上で予測することができた範囲を超える顕著なものであるということはできない。
4 しかしながら,原審の上記判断は是認することができない。その理由は,次のとおりである。
上記事実関係等によれば,本件他の各化合物は,本件化合物と同種の効果であるヒスタミン遊離抑制効果を有するものの,いずれも本件化合物とは構造の異なる化合物であって,引用発明1に係るものではなく,引用例2との関連もうかがわれない。そして,引用例1及び引用例2には,本件化合物がヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制作用を有するか否か及び同作用を有する場合にどの程度の効果を示すのかについての記載はない。このような事情の下では,本件化合物と同等の効果を有する本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということから直ちに,当業者が本件各発明の効果の程度を予測することができたということはできず,また,本件各発明の効果が化合物の医薬用途に係るものであることをも考慮すると,本件化合物と同等の効果を有する化合物ではあるが構造を異にする本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということのみをもって,本件各発明の効果の程度が,本件各発明の構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであることを否定することもできないというべきである。
しかるに,原審は,本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということ以外に考慮すべきとする諸事情の具体的な内容を明らかにしておらず,その他,本件他の各化合物の効果の程度をもって本件化合物の効果の程度を推認できるとする事情等は何ら認定していない。
そうすると,原審は,結局のところ,本件各発明の効果,取り分けその程度が,予測できない顕著なものであるかについて,優先日当時本件各発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができなかったものか否か,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点から十分に検討することなく,本件化合物を本件各発明に係る用途に適用することを容易に想到することができたことを前提として,本件化合物と同等の効果を有する本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということのみから直ちに,本件各発明の効果が予測できない顕著なものであることを否定して本件審決を取り消したものとみるほかなく,このような原審の判断には,法令の解釈適用を誤った違法があるといわざるを得ない。
5 以上によれば,原審の上記判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は,この趣旨をいうものとして理由があり,原判決は破棄を免れない。そして,本件各発明についての予測できない顕著な効果の有無等につき更に審理を尽くさせるため,本件を原審に差し戻すこととする。
よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。

平成30(行ヒ)69判決文

 

アーウェル国際特許事務所の化学について